決断の瞬間 吉田松陰編 第1話
吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた。なぜ、吉田松陰から始めるのか・時代背景・生い立ちから、現場での出来事までをたどる。
なぜ、吉田松陰から始めるのか
時代背景
生い立ち
年表
- 1853ペリー艦隊、浦賀に来航
- 1854.3.18松陰・金子重之輔、下田に到着
- 1854.3.25夜小舟で米艦へ接近を試みるも悪天候で失敗
- 1854.3.27夜〜28未明再度の乗船を試みるが拒否され送還
- その後自首し、伝馬町の獄を経て萩へ送還
- 1855.2.27金子重之輔、岩倉獄で病没(享年23)
舞台
下田(静岡県)―密航を企てた地
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『吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた』の先で何が起きたのか
「決断の瞬間」シリーズは初月無料。続きを読んで、現場の出来事とその後、同時代人・後世の評価までを確かめる。
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松下村塾
吉田松陰が1857年に萩で開いた私塾。1859年の松陰処刑までのおよそ2年間、伊藤博文・山県有朋・高杉晋作・久坂玄瑞ら後の明治維新を主導する人材を教育した。
鎖国
江戸幕府が、貿易・渡航を厳しく制限した対外政策。オランダ・中国など一部を除き、日本人の海外渡航や外国人の来航を禁じた。
山鹿流兵学
江戸時代の兵学者・山鹿素行が体系化した軍学の一派。吉田家は代々この兵学の師範を務めた。
佐久間象山
信濃松代藩出身の兵学者・思想家。西洋砲術・蘭学に通じ、松陰をはじめ多くの人材に影響を与えた。
日米和親条約
1854年、江戸幕府とアメリカが結んだ条約。下田・箱館の開港などを取り決め、日本の開国の端緒となった。
投夷書
密航の意図を記し、外国船の乗組員に渡した嘆願文書。
幽囚録
密航失敗後の獄中で松陰が著した手記。渡航を企てた経緯や思いを記している。
蟄居
武士に科された処罰の一つ。自宅や指定の場所での謹慎を命じられ、外出や他者との面会を制限された。
出典
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ウィキペディア日本語版「吉田松陰」
ja.wikipedia.org松陰の生年月日(文政13年8月4日/1830年9月20日)と出生地、実父・杉百合之助の下での幼少期の畑仕事と素読の様子、4歳での吉田大助養子入りと同家急死後の玉木文之進による教育、9歳での兵学教授見習・11歳での藩主前講義、江戸遊学と佐久間象山への師事、1857年開塾の松下村塾での指導期間と、伊藤博文(初代・第5・7・10代内閣総理大臣)・山県有朋(第3・9代内閣総理大臣)ら門下生のその後を記載。
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ウィキペディア日本語版「金子重之輔」
ja.wikipedia.org金子重之輔の生涯、松陰との出会い、密航計画への参加、岩倉獄での病没(1855年2月27日、享年23)を記載。
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ウィキペディア日本語版「佐久間象山」
ja.wikipedia.org松陰への送別の詩「吉田義卿を送る」を贈ったことによる連座、1854年4月の投獄、同年9月の松代蟄居処分を記載。
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下田市公式サイト「吉田松陰による『踏海の企て』」
city.shimoda.shizuoka.jp1854年3月の下田到着から、2度の乗船未遂、自首、萩送還に至る経緯を記した歴史解説。
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国立国会図書館「中高生のための 幕末・明治の日本の歴史事典」吉田松陰紹介ページ
kodomo.go.jp黒船密航計画の概要、投獄後の読書・著作活動、松下村塾での教育活動を紹介する人物解説。
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WEB歴史街道「吉田松陰が玉木文之進から学んだ『公』の精神」
rekishikaido.php.co.jp玉木文之進による幼少期の松陰への厳格な教育の逸話(体を掻いたことへの叱責)を紹介する解説記事。
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nippon.com「世界が初めて出会った『志士』」
nippon.comペリーが著書『日本遠征記』(M・C・ペリー著、F・L・ホークス編纂、宮崎壽子監訳)で、松陰と金子重之輔の密航企図を日本人の知識欲の証拠として評価した記述を紹介。