吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた(中高生向け)

決断の瞬間 吉田松陰編 第1話 中高生向け

吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた。なぜ、吉田松陰から始めるのか・当時の時代・生まれと子ども時代から、現場での出来事までをたどる。

テーマ: 吉田松陰想定読了時間: 約7分

なぜ、吉田松陰から始めるのか

透真
「決断の瞬間」、記念すべき第1回で取り上げるのは、吉田松陰(よしだしょういん)だよ。クロノス、彼をこのシリーズの最初に取り上げる理由になりそうな、経歴の特徴を教えて。
クロノス
吉田松陰は29年の生涯の中で、黒船への密航の企て、藩を抜け出す行為、牢の中での教育活動、処刑の前の発言という、複数の重大な岐路について記録が残っています。また、1857年に開いた松下村塾(しょうかそんじゅく、※1)で教えていた期間は、1859年に処刑されるまでのおよそ2年間でしたが、その教え子の中からは、後に初代・第5・7・10代の内閣総理大臣になる伊藤博文(いとうひろぶみ)、第3・9代の内閣総理大臣になる山県有朋(やまがたありとも)をはじめ、明治維新(めいじいしん)を引っぱった人たちが何人も出ています。
日和
一人の人のことなのに、これから何話分もの「決断」の記録が残ってるんだ。しかも教えてたのはたった2年で、そこから総理大臣が二人も出てるなんて、影響の大きさがすごいね。
透真
短い生涯の中に、いくつもの重大な決断の記録が残っていて、しかもその後の歴史への影響も大きい。だから、このシリーズは吉田松陰から始めるんだ。

当時の時代

透真
クロノス、当時の日本の対外政策はどうなってた?
クロノス
江戸幕府は鎖国(さこく)という政策をとっていました。幕府の許可なく海外に渡ることは重い罪とされ、見つかれば死刑になることもありました。
日和
外国に行くこと自体が、法律違反だったんだ。
透真
クロノス、1853年に何があった?
クロノス
1853年、アメリカの軍人ペリーが率いる艦隊が浦賀(うらが)に来航しました。いわゆる「黒船」です。

生まれと子ども時代

透真
クロノス、松陰が生まれたときの話を教えて。
クロノス
吉田松陰は1830年、長州(今の山口県)の萩(はぎ)というところで、身分の低い武士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれました。
透真
クロノス、杉家はどんな家だった?
クロノス
杉家は禄(ろく、給料にあたるもの)の少ない下級武士の家でした。子どものころの松陰は、父や兄と一緒に畑仕事をしながら、父が声に出して読む儒学の本を、あとから復唱していたと伝えられています。
日和
武士の家なのに、自分たちで畑を耕してたんだ。意外だな。
透真
クロノス、その後、松陰の身分に変化はあった?
クロノス
1834年、4歳のとき、松陰は叔父で兵学(へいがく、軍事の学問)の先生をしていた吉田大助(よしだだいすけ)の養子になりました。しかし翌年、大助が急に亡くなったため、別の叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が松陰を厳しく教育することになります。
日和
どのくらい厳しかったの?
透真
クロノス、具体的な話は?
クロノス
記録によれば、幼い松陰が体をかいただけで、玉木文之進は「かゆみは自分のためのもの、かくのは自分が満足するためのもの。それを許せば、大人になって世の中に出たとき、自分の得ばかりを考える人間になる」としかったと伝えられています。
日和
体をかいただけで怒られるなんて、想像できないな。
透真
クロノス、この厳しい教育のあと、松陰はどう育った?
クロノス
記録では、松陰は9歳で兵学の先生の見習いになり、11歳のときには藩主・毛利慶親(もうりよしちか)の前で兵学の本を講義し、その才能を認められています。その後、江戸に出て兵学者の佐久間象山(さくましょうざん)に弟子入りしました。象山は、西洋の学問や技術を積極的に取り入れるべきだと説いていた人物です。
日和
厳しい教育を受けて、10代のうちからそんなに評価されてたんだ。

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『吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた』の先で何が起きたのか

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用語解説

松下村塾(しょうかそんじゅく)

吉田松陰が1857年に萩で開いた私塾。1859年に松陰が処刑されるまでのおよそ2年間、伊藤博文・山県有朋・高杉晋作・久坂玄瑞ら、後に明治維新を引っぱる人たちを教えた。

鎖国(さこく)

江戸幕府が、貿易や渡航を厳しく制限した政策。オランダや中国など一部を除き、日本人が海外に行くことも、外国人が日本に来ることも禁止していた。

山鹿流兵学(やまがりゅうへいがく)

江戸時代の学者・山鹿素行が体系化した軍事学の一派。吉田家は代々この学問の先生をつとめていた。

佐久間象山(さくましょうざん)

信濃松代藩(今の長野県)出身の学者。西洋の大砲の技術や蘭学にくわしく、松陰をはじめ多くの人に影響をあたえた。

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)

1854年、江戸幕府とアメリカが結んだ条約。下田・箱館(はこだて)を開くことなどを決め、日本が外国に対して開かれる、いちばん最初のきっかけになった。

投夷書(とういしょ)

密航したい理由を書いて、外国船の乗組員に渡した願い出の手紙。

幽囚録(ゆうしゅうろく)

密航に失敗したあと、牢の中で松陰が書いた手記。渡航を計画した経緯や思いが書かれている。

出典

  1. ウィキペディア日本語版「吉田松陰」

    ja.wikipedia.org

    松陰の生年月日(1830年9月20日)と出生地、実父・杉百合之助のもとでの子ども時代の畑仕事と素読の様子、4歳での吉田大助の養子入りと、その死後の玉木文之進による教育、9歳での兵学教授見習い・11歳での藩主の前での講義、江戸遊学と佐久間象山への弟子入り、1857年開塾の松下村塾での指導期間と、伊藤博文・山県有朋ら教え子のその後を記載。

  2. ウィキペディア日本語版「金子重之輔」

    ja.wikipedia.org

    金子重之輔の生涯、松陰との出会い、密航計画への参加、岩倉獄での病死(1855年2月27日、23歳)を記載。

  3. ウィキペディア日本語版「佐久間象山」

    ja.wikipedia.org

    松陰への送別の詩「吉田義卿を送る」を贈ったことによる連座、1854年4月の投獄、同年9月の松代での謹慎処分を記載。

  4. 下田市公式サイト「吉田松陰による『踏海の企て』」

    city.shimoda.shizuoka.jp

    1854年3月の下田到着から、2度の乗船未遂、自首、萩送還に至る経緯を記した歴史解説。

  5. 国立国会図書館「中高生のための 幕末・明治の日本の歴史事典」吉田松陰紹介ページ

    kodomo.go.jp

    黒船密航計画の概要、投獄後の読書・著作活動、松下村塾での教育活動を紹介する人物解説。

  6. WEB歴史街道「吉田松陰が玉木文之進から学んだ『公』の精神」

    rekishikaido.php.co.jp

    玉木文之進による幼少期の松陰への厳格な教育の逸話(体をかいたことへの叱責)を紹介する解説記事。

  7. nippon.com「世界が初めて出会った『志士』」

    nippon.com

    ペリーが著書『日本遠征記』(M・C・ペリー著、F・L・ホークス編纂、宮崎壽子監訳)で、松陰と金子重之輔の密航企図を日本人の知識欲の証拠として評価した記述を紹介。

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