吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた

決断の瞬間 吉田松陰編 第1話

吉田松陰、24歳で黒船密航を企てた。なぜ、吉田松陰から始めるのか・時代背景・生い立ちから、現場での出来事までをたどる。

テーマ: 吉田松陰想定読了時間: 約6分

なぜ、吉田松陰から始めるのか

透真
「決断の瞬間」を始める。記念すべき第1回で取り上げるのは、吉田松陰だ。クロノス、彼をこのシリーズの最初に取り上げる理由になりそうな、経歴上の特徴を教えてくれ。
クロノス
吉田松陰は29年の生涯のうちに、黒船への密航企図、藩を脱ける行為、投獄中の教育活動、処刑前の陳述という、複数の重大な岐路について記録が残っています。また、安政4年(1857年)に開いた松下村塾(※1)での指導期間は、1859年に処刑されるまでのおよそ2年間でしたが、その門下からは、後に初代・第5・7・10代内閣総理大臣となる伊藤博文、第3・9代内閣総理大臣となる山県有朋をはじめ、明治維新を主導した人物が複数輩出されています。
玲司
一人の人物のことなのに、これから何話分もの「決断」の記録が残ってるのか。しかも教えていたのはたった2年で、そこから後に総理大臣になる人物が二人も出てるって、影響の大きさが桁違いだな。
透真
短い生涯の中に、複数の重大な決断の記録が残っていて、しかもその後の歴史への影響も大きい。だから、このシリーズは吉田松陰から始める。

時代背景

透真
クロノス、まず当時の日本の対外政策から教えてくれ。
クロノス
江戸幕府は鎖国(※2)政策を取っており、幕府の許可なく海外に渡ることは重罪とされていました。発覚すれば死罪もありうる行為でした。
玲司
出て行くこと自体が、法律違反ってことだよな。
透真
クロノス、1853年の出来事は?
クロノス
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる艦隊が浦賀に来航しました。

生い立ち

透真
クロノス、松陰が生まれたときの状況を教えてくれ。
クロノス
吉田松陰は文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下の松本村で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
透真
クロノス、杉家はどんな家だった?
クロノス
記録によれば、杉家は禄の少ない下級武士の家で、幼少期の松陰は父や兄の梅太郎と共に畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら、父が音読する四書五経や頼山陽の詩を復唱していたとされています。
玲司
武士って言っても、自分の家で畑仕事してたのか。
透真
クロノス、この後、松陰の身分に変化はあった?
クロノス
1834年、4歳のとき、松陰は叔父で山鹿流兵学(※3)師範の吉田大助の養子となりました。しかし翌1835年、吉田大助は急死し、以後は同じく叔父の玉木文之進から兵学と学問の教育を受けています。
透真
クロノス、玉木文之進の指導について、具体的な記録は?
クロノス
記録によれば、玉木文之進の指導は厳格で、幼い松陰が体を掻いただけで叱責し、「かゆみは私、掻くことは私の満足。それを許せば、長じて世の中に出た時に私利私欲を図る者になる」と諭したと伝えられています。
玲司
体を掻いただけで怒られるのか。厳しいなんてもんじゃないな。
透真
クロノス、この教育の結果、松陰はどう育った?
クロノス
記録では、松陰は9歳で兵学教授見習となり、11歳のときには藩主・毛利慶親の前で兵学書『武教全書』を講じ、その才を認められています。その後、江戸に出て兵学者・佐久間象山(※4)に師事しました。象山は西洋の学問・技術を積極的に取り入れるべきだと説いていた人物です。
玲司
厳しい教育を受けて、10代のうちから藩主の前で講義するレベルまで育ってたのか。

年表

  1. 1853ペリー艦隊、浦賀に来航
  2. 1854.3.18松陰・金子重之輔、下田に到着
  3. 1854.3.25夜小舟で米艦へ接近を試みるも悪天候で失敗
  4. 1854.3.27夜〜28未明再度の乗船を試みるが拒否され送還
  5. その後自首し、伝馬町の獄を経て萩へ送還
  6. 1855.2.27金子重之輔、岩倉獄で病没(享年23)

舞台

下田(静岡県)―密航を企てた地

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用語解説

松下村塾

吉田松陰が1857年に萩で開いた私塾。1859年の松陰処刑までのおよそ2年間、伊藤博文・山県有朋・高杉晋作・久坂玄瑞ら後の明治維新を主導する人材を教育した。

鎖国

江戸幕府が、貿易・渡航を厳しく制限した対外政策。オランダ・中国など一部を除き、日本人の海外渡航や外国人の来航を禁じた。

山鹿流兵学

江戸時代の兵学者・山鹿素行が体系化した軍学の一派。吉田家は代々この兵学の師範を務めた。

佐久間象山

信濃松代藩出身の兵学者・思想家。西洋砲術・蘭学に通じ、松陰をはじめ多くの人材に影響を与えた。

日米和親条約

1854年、江戸幕府とアメリカが結んだ条約。下田・箱館の開港などを取り決め、日本の開国の端緒となった。

投夷書

密航の意図を記し、外国船の乗組員に渡した嘆願文書。

幽囚録

密航失敗後の獄中で松陰が著した手記。渡航を企てた経緯や思いを記している。

蟄居

武士に科された処罰の一つ。自宅や指定の場所での謹慎を命じられ、外出や他者との面会を制限された。

出典

  1. ウィキペディア日本語版「吉田松陰」

    ja.wikipedia.org

    松陰の生年月日(文政13年8月4日/1830年9月20日)と出生地、実父・杉百合之助の下での幼少期の畑仕事と素読の様子、4歳での吉田大助養子入りと同家急死後の玉木文之進による教育、9歳での兵学教授見習・11歳での藩主前講義、江戸遊学と佐久間象山への師事、1857年開塾の松下村塾での指導期間と、伊藤博文(初代・第5・7・10代内閣総理大臣)・山県有朋(第3・9代内閣総理大臣)ら門下生のその後を記載。

  2. ウィキペディア日本語版「金子重之輔」

    ja.wikipedia.org

    金子重之輔の生涯、松陰との出会い、密航計画への参加、岩倉獄での病没(1855年2月27日、享年23)を記載。

  3. ウィキペディア日本語版「佐久間象山」

    ja.wikipedia.org

    松陰への送別の詩「吉田義卿を送る」を贈ったことによる連座、1854年4月の投獄、同年9月の松代蟄居処分を記載。

  4. 下田市公式サイト「吉田松陰による『踏海の企て』」

    city.shimoda.shizuoka.jp

    1854年3月の下田到着から、2度の乗船未遂、自首、萩送還に至る経緯を記した歴史解説。

  5. 国立国会図書館「中高生のための 幕末・明治の日本の歴史事典」吉田松陰紹介ページ

    kodomo.go.jp

    黒船密航計画の概要、投獄後の読書・著作活動、松下村塾での教育活動を紹介する人物解説。

  6. WEB歴史街道「吉田松陰が玉木文之進から学んだ『公』の精神」

    rekishikaido.php.co.jp

    玉木文之進による幼少期の松陰への厳格な教育の逸話(体を掻いたことへの叱責)を紹介する解説記事。

  7. nippon.com「世界が初めて出会った『志士』」

    nippon.com

    ペリーが著書『日本遠征記』(M・C・ペリー著、F・L・ホークス編纂、宮崎壽子監訳)で、松陰と金子重之輔の密航企図を日本人の知識欲の証拠として評価した記述を紹介。

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