吉田松陰、問われていないことを自ら語った

決断の瞬間 吉田松陰編 第4話

吉田松陰、問われていないことを自ら語った。時代背景・生い立ちの振り返りから、現場での出来事までをたどる。

テーマ: 吉田松陰想定読了時間: 約5分

時代背景

透真
これまで3話、密航、脱藩、獄中の講義と見てきたが、今回が吉田松陰編の最後の話になる。クロノス、松下村塾の後、松陰の身に何が起きたか教えてくれ。
クロノス
1858年(安政5年)、幕府が朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約(※1)を締結したことに対し、松陰は「間部詮勝要撃策」を長州藩に提言しています。老中首座・間部詮勝が上洛する際に条約破棄と攘夷(※2)実行を迫り、応じなければ討ち取るという計画でした。
玲司
老中を待ち伏せして討ち取るって、完全にアウトなやつだよな。
透真
クロノス、藩の反応は?
クロノス
松陰は計画実行のため、藩に大砲などの武器の借用を願い出ましたが、拒絶されています。その後、松陰は再び野山獄に投獄されました。

生い立ちの振り返り

透真
クロノス、ここまでの松陰の歩みを簡単に振り返っておこう。
クロノス
松陰は1830年、長州萩の下級武士の家に生まれ、4歳で兵学師範・吉田家の養子となり、玉木文之進の厳格な指導のもとで育ちました。1851年に脱藩し東北を遊学、1854年には黒船への密航を試みて失敗、投獄されています。出獄後は1857年から松下村塾を主宰し、高杉晋作や伊藤博文ら多くの門人を育てました。
透真
クロノス、松陰の周辺にいた人物についての記録は?
クロノス
記録によれば、京都で活動していた梅田雲浜が萩に滞在した際、松陰と面会しています。また、伏見要駕策を立案した大高又次郎・平島武次郎は、その梅田雲浜の門下生でした。松陰自身は伏見要駕策そのものには関わっていません。

年表

  1. 1858間部詮勝要撃策を提言するも藩に拒絶され再投獄
  2. 1859梅田雲浜への連座で安政の大獄に連座、江戸へ送致
  3. 評定所にて問われていない要撃策を自ら告白
  4. 1859.10.27伝馬町牢屋敷で処刑(享年29、数え30)
  5. 1863正月高杉晋作・伊藤博文らが遺骨を若林村へ改葬
  6. 1882墓の近くに松陰神社が築かれる

舞台

伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区小伝馬町)―松陰が処刑された地

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用語解説

日米修好通商条約

1858年、江戸幕府とアメリカが結んだ通商条約。天皇の勅許を得ないまま調印されたため、国内で強い反発を招いた。

攘夷

外国勢力を武力で排除しようとする思想・運動。

安政の大獄

1858〜59年、大老・井伊直弼が、条約調印や将軍継嗣問題に反対した公家・大名・志士らを弾圧した事件。

評定所

江戸幕府の最高裁判機関。重大事件の審理などを行った。

国事犯

国家の政治体制に反する行為をしたとされる犯罪者。政治犯。

禁門の変

1864年、長州藩が京都御所周辺で幕府・会津藩などと交戦した事件。長州藩はこの戦いに敗れた。

出典

  1. ウィキペディア日本語版「吉田松陰」

    ja.wikipedia.org

    間部詮勝要撃策の建白と藩への武器借用願い、梅田雲浜連座による江戸送致、評定所での自発的な告白、死罪宣告、処刑日、および『吉田松陰全集』に基づく死罪申渡し場面での小幡高政の記録(辞世の吟誦と居合わせた幕吏の反応)を記載。

  2. 萩市ホームページ「文とゆかりの地 5 吉田松陰の墓ならびに墓所」

    city.hagi.lg.jp

    「安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれた墓碑の記述を紹介する公式解説。

  3. 青空文庫「留魂録」

    aozora.gr.jp

    辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」、四季になぞらえた死生観を記す原文。

  4. 国立国会図書館「近代日本人の肖像」吉田松陰

    ndl.go.jp

    松陰の生涯全体の経歴を確認できる公的機関による人物解説。

  5. 松陰神社(東京・世田谷)公式サイト「神社由緒」

    shoinjinja.org

    小塚原への埋葬、1863年の高杉晋作・伊藤博文らによる若林村への改葬、1864年の墓の破壊、1868年の墓碑再建、1882年の神社創建に至る経緯を記載。

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