吉田松陰、聞かれていないことを自分から語った

決断の瞬間 吉田松陰編 第4話 中高生向け

吉田松陰、聞かれていないことを自分から語った。当時の時代・生まれと子ども時代のふりかえりから、現場での出来事までをたどる。

テーマ: 吉田松陰想定読了時間: 約6分

当時の時代

透真
これまで3話、密航、脱藩、牢の中の講義と見てきたけど、今回が吉田松陰編の最後の話になるよ。クロノス、松下村塾のあと、松陰の身に何が起きたか教えて。
クロノス
1858年、幕府が朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んだことに対し、松陰は「間部詮勝要撃策(まなべあきかつようげきさく)」を長州藩に提案しています。老中(ろうじゅう、幕府の重要な役職)のトップである間部詮勝が京都に向かう際に、条約の破棄と攘夷の実行を迫り、応じなければ討ち取るという計画でした。
日和
老中を待ち伏せして討ち取ろうとしたなんて、完全にアウトなやつだよね。
透真
クロノス、藩の反応は?
クロノス
松陰は計画を実行するため、藩に大砲などの武器を貸してほしいと願い出ましたが、断られています。その後、松陰は再び野山獄に入れられました。

生まれと子ども時代のふりかえり

透真
クロノス、ここまでの松陰の歩みをかんたんに振り返っておこう。
クロノス
松陰は1830年、長州・萩の身分の低い武士の家に生まれ、4歳で兵学の先生の家・吉田家の養子になり、玉木文之進の厳しい指導のもとで育ちました。1851年に脱藩して東北を旅し、1854年には黒船への密航を試みて失敗し、投獄されています。牢から出たあとは1857年から松下村塾を主宰し、高杉晋作や伊藤博文ら多くの弟子を育てました。
透真
クロノス、松陰のまわりにいた人物についての記録は?
クロノス
記録によれば、京都で活動していた梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩に滞在したとき、松陰と会っています。また、伏見要駕策(ふしみようがさく)という計画を立てた大高又次郎・平島武次郎は、その梅田雲浜の弟子でした。松陰自身は、この伏見要駕策には関わっていません。

ここから先は会員限定です

『吉田松陰、聞かれていないことを自分から語った』の先で何が起きたのか

「決断の瞬間」シリーズは初月無料。続きを読んで、現場の出来事とその後、同じ時代の人が残したものまでを確かめる。

無料体験をはじめる

用語解説

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)

1858年、江戸幕府とアメリカが結んだ通商条約。天皇の許可を得ないまま結ばれたため、国内で強い反発を招いた。

攘夷(じょうい)

外国の勢力を武力で追い払おうとする考え方・運動。

安政の大獄(あんせいのたいごく)

1858〜59年、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、条約の締結や将軍の後継ぎ問題に反対した公家・大名・志士たちを厳しく取り締まった事件。

評定所(ひょうじょうしょ)

江戸幕府の最高裁判機関。重大な事件の審理などを行った。

国事犯(こくじはん)

国の政治のしくみに反する行為をしたとされる犯罪者。政治犯。

禁門の変(きんもんのへん)

1864年、長州藩が京都の御所のまわりで幕府や会津藩などと戦った事件。長州藩はこの戦いに敗れた。

出典

  1. ウィキペディア日本語版「吉田松陰」

    ja.wikipedia.org

    間部詮勝要撃策の提案と藩への武器借用願い、梅田雲浜連座による江戸送致、評定所での自発的な告白、死刑宣告、処刑日、および『吉田松陰全集』にもとづく死刑言い渡し場面での小幡高政の記録(辞世の吟誦と居合わせた役人の反応)を記載。

  2. 萩市ホームページ「文とゆかりの地 5 吉田松陰の墓ならびに墓所」

    city.hagi.lg.jp

    「安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれた墓碑の記述を紹介する公式解説。

  3. 青空文庫「留魂録」

    aozora.gr.jp

    辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」、四季になぞらえた死生観を記す原文。

  4. 国立国会図書館「近代日本人の肖像」吉田松陰

    ndl.go.jp

    松陰の生涯全体の経歴を確認できる公的機関による人物解説。

  5. 松陰神社(東京・世田谷)公式サイト「神社由緒」

    shoinjinja.org

    小塚原への埋葬、1863年の高杉晋作・伊藤博文らによる若林村への改葬、1864年の墓の破壊、1868年の墓碑再建、1882年の神社創建に至る経緯を記載。

コメントする