決断の瞬間 諸葛孔明編 第2話 中高生向け
諸葛亮、降伏論の陣営に乗り込んで同盟を説いた決断。当時の時代から、現場での出来事までをたどる。
当時の時代
透真
前回、27歳の諸葛亮(しょかつりょう)は隆中(りゅうちゅう)での隠れて暮らす生活を離れて、劉備(りゅうび)に仕える決断をした。今回はその翌年、208年の話だ。クロノス、当時の状況を教えてくれ。
クロノス
208年、中国北部を平定した曹操(そうそう)は荊州(けいしゅう)へ南下しました。荊州のトップだった劉表(りゅうひょう)が病死し、跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は9月に曹操へ降伏しました。劉備はこれにより荊州を離れ、南へ逃れることになりました。
日和
仕えたばかりの劉備が、頼りにしていた荊州ごと、戦わずに降伏されちゃったんだ。
透真
クロノス、このときの曹操軍の規模は?
クロノス
曹操は自分の軍を「八十万」と称し、孫権(そんけん)に対して服従を促す手紙を送っています。孫権側の兵力は数万ほどだったと記録されています。
日和
向こうは(数字がそのままかは別として)ものすごい大軍を名乗ってるんだ。そりゃ怖くなるよね。
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『諸葛亮、降伏論の陣営に乗り込んで同盟を説いた決断』の先で何が起きたのか
「決断の瞬間」シリーズは初月無料。続きを読んで、現場の出来事とその後、同じ時代の人が残した言葉までを確かめる。
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劉琮(りゅうそう)
劉表の子。父の死後に荊州を継いだが、208年に曹操へ降伏した。
張昭(ちょうしょう)
孫権の家臣。赤壁の戦いに際して降伏を勧めた。
魯粛(ろしゅく)
孫権の家臣。赤壁の戦いに際して戦うことと劉備との同盟を勧めた。
周瑜(しゅうゆ)
孫権の家臣。赤壁の戦いで総司令官として曹操軍を迎え撃った。
黄蓋(こうがい)
孫権の家臣。赤壁の戦いで火攻めを実行した。
出師表(すいしひょう)
諸葛亮が北伐(ほくばつ)に出発するにあたって、皇帝劉禅に提出した文書。227年に提出された。
出典
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ウィキペディア日本語版「赤壁の戦い」
ja.wikipedia.org208年の曹操の荊州南下、劉琮の降伏、孫権陣営における張昭の降伏論と魯粛の抗戦論、諸葛亮による曹操軍の弱点指摘、孫権による周瑜の総司令官任命、黄蓋の火攻めと曹操軍の疫病による敗走を記載。
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ウィキペディア日本語版「諸葛亮」
ja.wikipedia.org赤壁の戦いにおける諸葛亮の孫権陣営への派遣と説得の経緯、227年の出師表提出を記載。