決断の瞬間 諸葛孔明編 第3話 中高生向け
諸葛亮、「取って代われ」と言われて拒んだ決断。当時の時代から、現場での出来事までをたどる。
当時の時代
透真
前回、諸葛亮(しょかつりょう)は降伏の意見が多い場に単身乗り込んで同盟を説き、赤壁(せきへき)での勝利を経て、劉備(りゅうび)・孫権(そんけん)・曹操(そうそう)の三国が並び立つ形の基礎ができた。今回はその十数年後、223年の話だ。クロノス、その前の年に何があった?
クロノス
222年、劉備は義兄弟の関羽(かんう)を討った孫権への報復として、自ら軍を率いて出征しました。しかし夷陵(いりょう)で、呉(ご)の陸遜(りくそん)の火攻めによって蜀漢(しょくかん)軍は大敗しました。劉備は山の中を越えてなんとか脱出し、白帝城(はくていじょう)に逃げ込みました。
日和
復讐のために出た戦いで、大敗してしまったんだ。
透真
クロノス、そのあとの劉備は?
クロノス
劉備は白帝城に永安宮(えいあんきゅう)という御殿を造ってとどまり、章武(しょうぶ)3年4月24日(223年6月10日)、63歳で亡くなりました。
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『諸葛亮、「取って代われ」と言われて拒んだ決断』の先で何が起きたのか
「決断の瞬間」シリーズは初月無料。続きを読んで、現場の出来事とその後、同じ時代の人が残した言葉までを確かめる。
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夷陵(いりょう)
現在の湖北省宜昌市の近く。222年、劉備軍が陸遜の火攻めによって大敗した場所。
白帝城(はくていじょう)
長江の上流域にあった城。劉備が最期を迎えた場所として知られる。
禅譲(ぜんじょう)
君主が血のつながりによらず、優れているとされる人物に位を譲ること。220年、後漢最後の皇帝・献帝(けんてい)が魏の曹丕に位を譲った。
劉禅(りゅうぜん)
劉備の子。223年、劉備の死によって蜀漢の第2代皇帝に即位した。
出典
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ウィキペディア日本語版「劉備」
ja.wikipedia.org222年の夷陵の戦いでの敗北、白帝城への撤退、223年6月10日の死去、諸葛亮への託孤の言葉と、陳寿による「君臣の至公、古今の盛軌」という評価を記載。
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ウィキペディア日本語版「諸葛亮」
ja.wikipedia.org劉備死後の諸葛亮による丞相としての国政主導、劉禅への補佐を記載。
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ウィキペディア日本語版「夷陵の戦い」
ja.wikipedia.org222年の劉備の出征経緯、陸遜の火攻めによる蜀漢軍の大敗、劉備の白帝城への撤退を記載。