吉田松陰、21歳で藩を抜け出して東北へ向かった

決断の瞬間 吉田松陰編 第2話 中高生向け

吉田松陰、21歳で藩を抜け出して東北へ向かった。当時の時代・生まれと子ども時代のふりかえりから、現場での出来事までをたどる。

テーマ: 吉田松陰想定読了時間: 約5分

当時の時代

透真
前回、黒船に密航しようとした松陰の話をしたけど、今回はその3年前、まだ黒船が来る前の話だよ。クロノス、1851年ごろの日本のまわりの状況は?
クロノス
当時、日本の北の海には、ロシアの船がたびたび現れていました。東北地方の海岸の守りが実際どうなっているか確かめることが、防備に関心を持つ人たちの間で気になることでした。
日和
黒船より前から、外国の船への警戒はあったんだね。

生まれと子ども時代のふりかえり

透真
クロノス、前回の話をかんたんに振り返っておこう。松陰はどんな家に生まれて、どう育った?
クロノス
吉田松陰は1830年、長州・萩の身分の低い武士・杉百合之助の次男として生まれ、4歳で兵学の先生の家・吉田家の養子になりました。養父が急に亡くなったあとは、叔父・玉木文之進の厳しい指導を受け、9歳で兵学の先生の見習いになっています。
透真
クロノス、その後、松陰はどこで何を学んだ?
クロノス
1851年3月、松陰は藩主・毛利慶親について江戸に行き、兵学者の佐久間象山に弟子入りしています。海の守りについての知識を深めるためでした。
日和
前回の続きで、江戸で勉強してたんだね。
透真
クロノス、この年、松陰が仲良くなった人物は?
クロノス
記録によれば、松陰は熊本藩の武士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)と親しくなっています。宮部は30歳のときに熊本藩の兵学の先生になった人物で、松陰と同じ山鹿流の兵学を学んでいました。

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用語解説

関所手形(せきしょてがた)

藩の境や関所を通るために必要だった、藩主の許可を示す通行証。

脱藩(だっぱん)

武士が、主君である藩主の許可を得ないまま藩を離れること。重い罰の対象だった。

士籍(しせき)

武士としての身分・戸籍。これを失うと、武士としての特権や給料を失う。

世禄(せろく)

代々の家に対して藩から支給される給料にあたるもの。

尊王攘夷(そんのうじょうい)

天皇を大切にし(尊王)、外国の勢力を追い払おうとする(攘夷)という、幕末に広まった考え方。

池田屋事件(いけだやじけん)

1864年、京都の旅館・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちが、新選組の襲撃を受けた事件。

出典

  1. ウィキペディア日本語版「吉田松陰」

    ja.wikipedia.org

    松陰の生い立ち、江戸遊学と佐久間象山への弟子入り、宮部鼎蔵らとの東北遊学計画、水戸・会津・秋田・米沢での見聞、脱藩に至る経緯を記載。

  2. ウィキペディア日本語版「宮部鼎蔵」

    ja.wikipedia.org

    宮部鼎蔵の経歴(熊本藩兵学の先生)、松陰への思想的影響、1864年の池田屋事件での最期を記載。

  3. 萩市ホームページ「吉田松陰・文 略年譜」

    city.hagi.lg.jp

    1851年12月14日の東北遊歴出発(関所手形なし)、1852年12月9日の士籍削除(「父の育みとなる」)を記載する公式年譜。

  4. 松陰神社公式サイト「松下村塾(世界遺産)」

    showin-jinja.or.jp

    脱藩後の自首・士籍剥奪と、藩主による10年間の遊学許可の経緯を紹介する公式解説。

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